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    飯盛城跡 ~ 国史跡に指定するように文化審が答申

    [2021.8.5] -[新守口新着情報]

     令和3年6月18日に開催された国の文化審議会において「戦国時代の政治・軍事を知るうえで貴重」であるとして「飯盛城跡」を国史跡に指定するよう文部科学大臣に答申されました。今後は官報告示を経て正式に国史跡指定となります。指定されると大東市・四條畷市ともに初の国史跡となります。

    文化審答申
    「飯盛城跡は、戦国時代、畿内一円を支配した三好長慶が拠点とした山城跡。標高314mの飯盛山に築かれ、東西約400m、南北約700mで西日本有数の規模を誇る。飯盛城が記録に初めて現れるのは、享禄3年(1530)、木沢長政の居城としてである。その後、安見宗房の時代を経て、永禄3年(1560)、三好長慶が入城した後は、京と畿内を支配した三好政権の拠点として機能し、連歌や茶の湯等の当時最先端の文化交流の場ともなった。飯盛城に関する寺社文書や公家の日記、軍記物等、豊富な史料が残されており、また、城を訪問したイエズス会宣教師を通じて、ヨーロッパで刊行された文献や地図でも紹介されている。長慶の死後、養子の義継が若江城に居城を移した永禄12年(1569)頃に城郭の機能を失ったものと考えられる。大東市及び四條畷市教育委員会による発掘調査等により、戦国時代末期の城 郭遺構が良好に遺存し、北エリアの防御空間の曲輪群と南エリアの居住空間の曲輪群からなることや、城の全域に石垣が多用されていたことが確認された。我が国戦国時代末期の畿内を中心とする政治・軍事の様相や、 織豊系城 郭の形成過程を知る上で貴重である」